Jon Lord

"BURRN!" Oct. 1993 - An exclusive Interview of 25th anniversary

中立の立場を装いながら苦悩し続けた、バンドのもう1人の創設者が客観的に愛息DEEP PURPLEとの25年を振り返る…

by KOH SAKAI/EDITOR IN CHIEF

熱帯夜が続くNYC。 昨夜、ロングアイランドからホテルに戻って来た時、時計の針は午前2時をまわっていた。 シャワーを浴び、極端に遅い夜食なのか朝食なのか、判断出来ない軽食を口にしてからベッドにもぐり込んだ頃には陽が昇り始め、タイムズ・スクエアから聞こえてくる街のノイズが少しずつヴォリュームを上げる時間を迎えていた。
そして、午前9時に起床。日付は7月7日。 再びシャワーを浴び、取材の準備を始める。 絵に書いたような海外でのスケジュールを無意識のうちにこなす。
イアン・ギラン、リッチー・ブラックモアと続いた25周年記念インタビューも、いよいよ大詰めである。 お断りしておくが、イギリス人スタッフによるロジャー・グローヴァーの記事や、今回予定に入れなかったイアン・ペイスを蔑ろにしているわけではない。 偶発的にギランから始まったことにより、私の中で流れが決定しただけである。 ブラックモアが実現すれば、最後はジョン・ロードで締括るのが相応しい。 ロンドンで矢が放たれ(先月号参照)、ロングアイランドでその標的を確認…となれば、それが正確に射られたのか外れたのかを語れるのはバンドのもう1人の創設者しかいないだろう…結果、私の思惑どおりに事は進んだ。
DPの各メンバーは独立国家のようなもので、各々が自己の世界を持っている。 その中にあってロードとペイスだけは常に永世中立国のような立場を貫いてきたわけだが、特にロードにとってヴォーカリストとギタリストの確執はどのように映っていたのか、そして、再びこの5人でやることに対しては、また、自身にとっての25年とは…などを訊きたいがため、今度はコネテイカットまで足を運んだ。
昨日と同様に深緑のフリーウェイを走ること1時間余。 大型ボートや小型蒸気船が停泊する美しい川岸に立てられた洒落たホテルでジョン・ロードは待っていた。時刻は夕方4時。
7月7,8日の2日間の予定でプロモーション用インタビューの数32本という過密スケジュール…その日も早朝から電話取材を含めて10本近くもこなしていた彼は疲れた様子を微塵も感じさせない。 「私の部屋はちらかっているから、ここでやろうじゃないか」 彼の提案で、広くて静かなエレベーター・ロビーにある応接セットに座っての取材となった。

「IN ROCK」アルバムの成功の代償として、リッチーとの長年の友情を失ってしまった。愚かなことだったよ。

──25年は長かったですか、それとも短かったですか?
ジョン・ロード(以下J):後の方だね。 凄く早すぎたような気がする。 4半世紀だと考えると凄く長いけれど、ほんの数年のように思えるよ。 ロンドン西部で「IN ROCK」アルバム制作のためのリハーサルをしていたのが2〜3年前のことのような気がするんだ。

──すごく短いですね。
J:ああ。嫌だけどね。 もっと長く、一生のように思えていい筈なんだけど。

──オリジナルのDEEP PURPLE (以下DP)は8年続いて、再結成されたDPは1994年に10年目を迎えますが、ちょっと奇妙な気がしますね。 あなたはどう感じていますか?
J:そうだね。私達もそのことを考えたんだ。

──リユニオンの方が長くなってしまいましたね?
J:ああ。 それに、オリジナルの第2期は、たった4年続いただけだよ。 1969年から1973年までのね。 今回はすでにその2倍以上だ。 しかし、さっきの質問で答えたように、本当にアッと言う間に過ぎたんだ。 1983年に再結成してからが特に早かったように思える。 物凄く早過ぎたようだ。 でも、とてもハッピーな時期だったんだ。私の人生で最も幸福な期間だったよ。 素晴らしい時期だ。 それがほんの昨日のことのように思えるんだ。色々なことが起こったにも関わらずね。

──イアン・ギランが再び戻ったことについてはどう考えていますか? 色々な話が聞こえてきますが、あなたは彼のことをどう思っていますか?
J:イアンにはゴム・バンドがついているに違いないね。(笑)行ったと思うと戻って来るんだ。 (笑)私はとても嬉しいよ。正直な話をしよう。 過去のインタビューで、キミに「ジョー(リン・ターナー)がDPに入ったことについてどう思いますか?」と訊かれて、私は「とてもハッピーだ」と答えていたけれど、実は嘘をついていたんだ。キミもそれは知っていたよね。

──ええ。でも、誰だって「ハッピーじゃない」とは言えませんよ。
J:ありがとう。ジョーは大好きだよ。 とてもいいヤツだ。 非常に努力していたし、本当に一生懸命働いてくれた。イアン(ギラン)よりも上手い部分もある。 今はイアンよりも声域が広いだろう。 しかし、肝心なのは“より上手い”かどうかではなく、“適切”かどうかなんだ。 大切なのは…

──ぴったりかどうか、ですね?
J:そうだ。 そしてイアン・ギランは…

──ぴったり、なんですね?
J:そのとおりだよ。 彼以外の何者も、このバンドにシンガーとして在籍すべきではないんだ。 そして私は彼の復帰を、非常に非常に非常に、非常に、喜んでいる。(笑)戻って来たので驚いているけれどね。 もし私が彼だったら、「オマエ達は…、俺を誰だと思っているんだ? 何度も行けとか戻れとか言って来て…」と言うだろうね。だが、彼は戻って来てくれた。 有り難いことだよ。 簡単なことではないよ、イアンとリッチー
(ブラックモア)の二人を満足させることはね。 ステージでは問題ないんだ。 リッチーも多分言ったかもしれないが…。

──ええ、昨日聞きました。「パーフェクトだ」って言っていましたよ。
J:ステージの上では問題は一切ない。 しかし、ステージを離れると…(苦笑)彼は彼が嫌いだし、彼も彼が嫌いなんだ。 (苦笑)いや、嫌いというのではないかもしれない。しかし、難しいと思っている筈だ。

──リッチーは、「別々の檻に入っている2頭の虎だ」と言っていました。
J:ああ、確かに…。 しかし、私達はその2頭の虎と、もっと一生懸命に付き合うべきだったんだ。 2頭だけで闘わせるのではなく、いつも同じ檻の中に入っているべきだったんだ。 そして、どうすれば改善出来るのか、状況を良く出来るのか、を考えるべきだったんだ。 だって、私にとっては、これがDPのあるべき姿だと思えるのは……リッチーも言っているように、音楽的にもフィーリング的にもこれが正しいんだと思えるのは、この5人が揃っている時だけだからね。 それ以外は、妥協を含んでいる。

──しかし、今でも状況は決して良くはなく、グループ・フォトも入手出来ていないんですよ。(笑)あなた達の最新の宣材写真が欲しいんですが…。 (笑)
J:グループ・フォトは無理だろうね。 (笑)驚かないでくれよ。 (笑)で、何についての意見を訊きたいんだっけ?(笑)

──そういう状況についての、です。グループ・フォトも撮れないような…。
J:それは変わるよ。 私達はつい最近、スタジオでの作業を終えたところなんだ。 思っていたよりもかなり時間が掛かってしまった。 リハーサルを始めたり、ビデオを作るというような段階になっていない。 とにかく、まだ何も始めていないんだ。 イアン(ペイス)はスペインにいるし、イアン・ギランはポルトガルやロンドンにいるし、リッチーはロングアイランドにいて、ロジャーはこの辺りかな!? で、私は…自分が何処にいるかも判らない(苦笑)……こんな感じだよ。 しかしリハーサルを始める時になったら、間違いなく…。 決して意図的にやっているんじゃないよ。 今、とりあえずは、ということだよ。 私はこういう状態は好きじゃないんだよ。一緒にいる方が好きだね。 しかし、これからは一緒に過ごすんだから…。

──では、状況は変わりますか?
J:ああ、そう思うよ。変わらなければいけない。 すべて順調という振りは出来ないけれど、少なくとも一緒に写真を撮るくらいは出来る。 そういうことは問題ではないよ。 しかし、おかしいのは、キミがこういう質問をしなければいけないという状況だ。 こういう質問をされてはいけないんだよ。 質問されるような理由があってはいけない筈なんだ。 しかし、キミはこのバンドの歴史を知っているからね。 DPの今週のシンガーは誰だい?(笑)

──(笑)ロッド・エヴァンス。
J:そうさ。(笑)…でも、写真は集まって撮るよ。 それは約束する。

──25周年記念だからということで、金の問題が絡んでいるとか、イアン・ギランを戻したとか、色々と言うメディアもいます。 金銭的な理由でまた元に戻ったんだという考え方をする人達に対しては、どう説明しますか?
J:正直に言うよ。神に誓う。 このバンドで私が関わった決断に、金銭が関わったものは一切ない。 私達は金のことを考えて物事を決定したりはしない。 金は後から追いかけて来るんだ。 例えば、レコード会社が「これは素晴らしい、アルバムをもっと売ろう」と言ったら、私達も「それは良いね」と考えるけれど、イアン・ギランを呼び戻してもっと金儲けをしようなんてことは一度も言わなかった。 そんなことをしても上手く行く筈ないからね。キミには判っている筈さ。 私達にとって意味があったのは、きちんとした姿になることだった。 1991年のツアーには失望していたんだ。 自分達がやっていることを見て貰うというよりも、自分達がやっていることに対して言い訳をしている、という風に私は感じていた。 これが私達だよ、とは言っていなかった。今は言っている。 ニュー・アルバムでイアンが戻って来た。これが私達だよ。 ずっとこうであるべきだったし、これが私達の得意とするものだ。
しかし前回は、「ジョーはよくやってる、そう思わないかい? 新しい環境だということを考慮に入れれば、彼はよくやっているよ」と言い続けていたと思う。 去年、1992年、スタジオに戻って何曲か書き、リハーサルをして、その上にかぶせてジョーが歌い始めたんだが、私は終わってから、リッチーに「どうも好きじゃない」と言っていたんだ。 リッチーに「何が気に入らないんだ?」と訊かれて、「キミは気に入っているのか?」と逆に訊いたら、彼も“No!”と言うんだ。 (笑)そういうことをやってはいけないんだよ。 25年もやっているんだから、いや、去年だから24年だが、考え直すべきだ。

──1975年にトミー・ボーリンが参加した時も同じようなことを感じましたか?
J:トミー・ボーリンは大好きだったから、どうだったかを言うのは難しいね。 しかし、あの時、私もバンドに残るべきではなかった。 リッチーが去った時に、私も去るべきだった。 1974年にリッチーが「辞める」と言った時、実は私も辞めかけていたんだ。 彼が「これで終わりだ」と言った時にね。実際には辞めたんだ。 それならこれでDPとはサヨナラだと思った。 たった6年だったけれど、私には非常に長い時間に思えた。 そしして、カリフォルニアに住んでいた時にデイヴィッド・カヴァデールが家に訪ねて来て、「もう一度やれる、止める理由なんてない」と言ったんだ。 私は「止める理由がないとはどういう意味だ?」と訊いた。 DPは私のバンドだよ。リッチーと私がバンドを始めたんだ。 当然、私は止めるべきだった。 しかし、デイヴィッドとグレン(ヒューズ)は「素晴らしいギタリストを見つけたんだ。 神のようなプレイをするギタリストなんだ」と言い、とにかく私に対する説得を続け、最終的には一度試してみることに同意したんだ。
リハーサルをした時のトミーはウットリするほどだった。その日、彼はクリーンだったんだ。 彼には波があったからね。 彼は美しく、楽しい人間で、面白く、親切で、クリーンで、素面の時には、とにかく秀逸だった。 恐らく私が共演したプレイヤーの中で、心からギターを弾くことに最も長けていたギタリストだろうね。彼はノッている時は最高だった。 しかし、それはDPじゃなかったんだ。 「COME TASTE THE BAND」アルバムは、トミー・ボーリンとグレン・ヒューズのソロ・アルバムだったよ。 とても良いアルバムだけれど、DPとは何の関係もない。
……質問を忘れてしまったが、エーッと…1974年の話だったね? その時、私もバンドを去るべきだったと思う。リッチーが去った時に私も去るべきだった。 そして、2年後にバンドを再結成していたかもしれない。 リッチーはRAINBOWの活動をした後で、また一緒にやろうということになっていたかもしれない。 それは誰にも判らない。 リッチーだけが知っているよ。

──なるほど。ところで、25年間もファンをやっていると、奇妙な質問が沢山あるんですよ。
J:そういう質問には慣れているよ。 (笑)

──DPは、スタートした時は言ってみればジョン・ロードのバンドで、素晴らしいオルガン・サウンドをロックに取り入れてクラシックの影響がふんだんに見られた音楽を3枚目のアルバムまでやっていました。その後、オーケストラとのライヴ・アルバムを作り、そして「DEEP PURPLE IN ROCK」アルバムで、突然、ギター中心のリッチー・ブラックモア色の濃いバンドヘと変わりました。 そういう変化に対して、自分が中心から外れていると感じたり、悪い感情を持ったりしたことはありますか?
J:シンプルに答えてしまえば、Noだけれど、その理由を説明しよう。 最初にバンドを組んだ時は、5人のミュージシャンの中にリーダーが2人いた。 リッチーと私だ。 そして、リッチーと私は最初の年は非常に親しかった。 リッチーはどちらかというと誰かに導いて貰いたがっていた。 リーダーにはなりたがっていなかった。 彼はアレンジを決める時でも、いつも、「どう思う、ジョン? どちらにする方がいいと思う?」と訊いていたよ。 それは1968年のことで、BEATLESがまだ存在し、HRはやっと水平線から顔を出しだばかり、という時だった ジミ・ヘンドリックスはいたけれど、まだ始まったばかりのようなものだった。 だから、私達にもまだ自分達が本当に何をやりたいのか確信が持てなかったんだ。
で、次の年にシンガーとベーシストを替え、イアンとロジャー(グローヴァー)が入ったことで、私達がそれまでやっていたことが本当にやりたかったことではないことが全員にはっきりと判ったんだ。 リッチーは自分を抑えていたいそして、さっきキミが言ったように「IN ROCK」で起こった変化は非常に素早く起きた。 血も一滴も流れず痛みもなく、その変化は、もしも私が王冠をかぶっていて、それを失ったとしても、失ったことに気付かなかっただろう、そういうものだった。 アティテュードの変化はその時は全く感じられなかったんだ。そちらの変化は後で起こったんだ。 リッチーと私が激しく対立してからはね、愚かなことさ。 そのお陰で私達は長年の友情を失ってしまったんだ。 3〜4回の愚かな議論のためにね。
しかし、その時、実際に起ったのはDPにとって正しい変化だったんだよ。 そのお陰で私達を作り上げた「IN ROCK」というアルバムを作れたんだからね、他のアルバムの方か後でもっと売れたかもしれないけれど、あのアルバムこそが、DPとは何かというものを宣言しているアルバムなんだ。 それも、はっきりとね、気に入ろうが入るまいが、これがDPだ、と言っているんだ。
今、注意深くあのアルバムのキーボード・プレイを聴けば、私には最初のプレイのように奇妙に、個人的なものに聴こえるけれど、あのアルバムで成し遂げたことは、ギターと共演する方法を私達が見つけたということだ。 最初はどうやって一緒に合わせたらいいのか判らなかったんだ。 それがやれたんだよ、リッチーは私がどう考えていたのか判らなかったんだ。 彼は、私がボスになりたがっていると思っていたし、クラシック音楽だけをプレイしたがっていると思っていた。 彼はHRをプレイしたいと思っていたんだ。 そういう彼のヴィジョンが私達をそこへ導いてくれた。 彼がそうさせたんだよ。 面白いことに、リッチーは背後から操るんだ。 (笑)彼は前に立って、「さあ、来いよ」とは言わない。後ろに立って、「さあ、来い」と言うんだ。 (笑)それがいいんだよ。
1983年、1984年の再結成の時に起きたことはマジックの一つだと思うよ。 私のリッチーに対する友情は復活したことを発見した。素晴らしいことだ。 彼は非常に難しい人間だよ。それは間違いない。 しかし、彼をミュージシャンとして尊敬している。 彼と一緒に演奏出来ることはとても素晴らしいことだ。 長い間友情が壊れていだのは、お互いについて事実ではないことを信じ込んでいたからさ。 ……これで答になったかな?

──ええ。 さて、次の質問ですが、初期のステージでは銀色のサイケデリックなデザインのオルガンを椅子に座って弾いていましたね? あれはハモンドですか?
J:ああ、ハモンドだよ。ハモンドC-3さ。 そう、確かに座って弾いていたね。

──今、使っているハモンド・オルガンは確か、FLEETWOOD MACのクリスティーン・マクヴィーから買ったんですよね?
J:そうなんだ。 1971年から3年間、アメリカで一緒にツアーしたんだ。 1974年もかな。 いや、1973年が最後だったと思う。彼らは金がなくてね。 スティーヴィー・ニックスが人る前、「RUMOURS」アルバムが出る前、かなり前のことで、金がなかったし、クリスティーンはピアノだけを弾きたいと思って、それて私にオルガンを売ったんだ。 2,000ドルでね。 当時は4,000ドル出しても買えなかったから、良い買い物をしたよ。 ありがとう、クリスティーン。 (笑)彼女も今は凄くリッチだから、どうってことないだろうけどね。 (笑)

──では、それ以来ずっと使っているんですね?
J:そうだよ。 WHITFSNAKEの時もずっと使っていたし、今もちゃんと勤くよ。

──息子や戦友という感じですね。
J:そうだね。 壊れてしまったら、どうしたらいいか判らないよ。

──壊れることがありますか?
J:稀にね。滅多にないけど…。 素晴らしい楽器だよ。 私とあのオルガンは色々なことを一緒に体験して来たんだ。

──'70年代初期にレズリー・スピーカーを使わなくなった時、「誰でもレズリー・スピーカーを使えばオルガンが上手く弾けるように聴こえるから、マーシャルだけで挑戦したいんだ」とコメントしていましたね。その後、レズリーを再び使うようになりましたが、そのあたりの理由を聞かせてください。
J:レズリーに戻ったのは、レズリーを凄くラウドに鳴らす方法を見つけたからなんだ。 初期のレズリーでは、ヴォリュームを目一杯上げるとスピーカーが爆発してしまったんだ。 大きなスピーカーを使うとそれが爆発してしまうから、つまり、そういう風になる機構だったんだ。 1981年…まではそういう状態で、WHITESNAKEの時の私のテクニシャンが、もっと強いアンプを中に入れて、はるかに大きなスピーカー、JBLのホーンをトップに入れて、非常に強力なものにする方法を発見したんだ。 それでマーシャルのスピーカーからは非常にハードなサウンドを出せて、かつ、それまでは出せなかったソフトなレズリー・エフェクトも出せるようになったんだ。 レズリー・スピーカーを使わないでオルガンを弾くのは非常に難しいんだよ どんな小さな間違いもすぐに判ってしまうからね。 「LIVE IN JAPAN」アルバムを聴けば判るよ。 あれはレズリーを使っていないからね。

──マーシャル時代ですね。
J:そうなんだ。 それで、ちょっと間違う度に、“ヤバイ……”と思っていたんだよ(笑)でも、ああいう間違いが入っていることが嬉しいよ。 あれがあのアルバムの意味だからね。 リアルなのさ。

──キーボード奏者と呼ばれるようになっても、あなた自身はオルガン奏者と言っていますね。 それはハモンドをこんなに長い間弾いているからですか?
J:イアン・ギランが埋由なんだ。 彼は、誰かが私のことをキーボード奏者と呼ぶと怒るんだよ。 キーボード奏者なんかじゃない、ジョン・ロードはオルガニスト、オルガン奏者だよ、それが彼だ、とね。 それで他の呼び方をさせないようにしているんだ。 私は他のキーボードも弾くけれど、でも、オルガニストだね。

──では、どちらかというとイアンの言葉なんですね。
J:彼がそう呼ばせようとしたんだ。 (笑)彼は正しかったよ。 私は、例えばリック・ウェイクマンのようなキーボード奏者ではないからね。 第一、それほど他の楽器は上手くない。 シンセサイザーを使う時も、どういう音が欲しいか、はっきりと判っている時だけだ。 シンセサイザーを使って実験したりはしない。 特別なサウンドを少し出したい時に使うだけだ。 基本的にはオルガンが私の楽器だよ。

──第3期DPではARPオデッセイやその他のシンセサイザーを使いましたね。 その後、使わなくなりましたが、実験していた時期だったんですか?
J:ああ。 使うのが簡単になって来たからね、自分にも使えるかどうか試していたんだ。

──今でも持っていますか?
J : ARPは、ガレージのどこかに入っているよ、今でも使えるかどうか判らないけれどね。 全然使っていないから。 しかし、今のオーディエンスは昔よりもステージのヴァラエティの豊かさを期待しているし、慣れているから、エフェクトとしてもっと何か使わなければいけないだろうね。

──イーミュレーターは使いますか?
J:再結成した1984年に買ったものと同じものを使っているよ。 イーミュレーターH、ハード・ドライヴ付きのをね。

──メモリー・ムーヴは?
J:メモリー・ムーヴも持っているが、ツアーには向かないんだ。

──壊れ易いんですか?
J:彼は旅が好きじゃないんだよ。 (笑)コルグMIとウェイヴ・ステーションを持っているんだ。 良いサウンドが出るよ。 ニュー・アルバムでも1〜2ヵ所で使っているんだ。 大きなローランドのMIDIマスター・キーボードで、鍵盤がピアノ仕様(木製)になっていてフルサイズで付いていると思う。

──つまり、エレクトリック・ピアノですね?
J:そう。 ガヴァナー(制御用)・キーボードとして使っているんだ。

──マスター・キーボードというわけですか?
J:ああ、それ以上だね。 それから、小さなハモンドXP2も持っている。新製品で2台使っているよ。 1台はエクストラのオルガン・サウンドとしてね。 2台あれば、大きな方が壊れても、まだオルガ二ストとしてのサウンドが出せるからね、キーボード奏者としてではなくてね。 (笑)

──代役ですね?
J:うん。C-3を2台も持ち運べないからね。 (笑)

──レコードのソロは、レコーディング前にアレンジしておくんですか、それともテープを回している時にインプロヴァイズするんですか?
J:インプロヴァイズするんだよ。 何回かテープを回して何が出来るか様子を見て、そして3〜4種類聴いて、1つ気に入ったものがあったら、同じようなやり方でもう一度やってみることもある。 しかし、普通はソロは1回目か2回目のテイクで決めてしまうようにしてる。 でないと、心で弾くというよりも、上手く弾こうとしてしまうからね。 ソロを考え過ぎるのは好きじゃないんだ。 とても良いソロが2つ出来た時は……例えば、最初に良いのが1つ、最後に良いのが1つあったら、(小さな声で)くっつけてしまおう、と思うんだ。 (笑)

──ソロ・アルバムを何枚も出し、セッション・アルバムにも何枚も関わり、サウンドトラックも何枚も作っていますが、一番気に入っていて、今でも時々聴く作品はどれですか?
J:これまでにやったことのどれにも満足していないんだ。全部やり直したい。 今、振り返えれば、もっと上手くやれる筈だったことが判るからね。 でも、最も誇りを特っているものが2つある。 間違いはあるけれど、非常に満足しているものがソロ・アルバムの「SARA BANDE」で、これにはとても満足している。 それから「BEFORE I FORGET」アルバムもだ。 確か、やっと…

──ええ、日本でもCD化されました。
J:有り難いよ。 (笑)最初にリリースされた時は、世界一、誰にも知られていないレコードだっだからね。 (笑)

──プロモーションもなかったんですか?
J:全くなかったよ。 昔のマネージャーのジョン・コレッタは、何をどうしたらいいのか判ってなかったんだ。 「ロックン・ロールじゃないって? これは私だよ」とジョンに言ったんだが、彼は「一体これは何だ?」と言った。 「一体何だとは、どういう意味だ? これはここから出たものだよ、私の一部だよ」と言ったら、「それなら出そう」と言ったんだ。 大ヒットする筈だったとは言わないけれど、聴いて貰うチャンスは与えられる筈だった。 また発売されるから、聴いて貰うチャンスは再びあるよ。 「BEFORE I FORGET」は自伝的なアルバムだ。 妻や子供達についての曲が入っていて、私にとってはとても大切なアルバムだよ。 非常に密接しているんだ。

──1991年にプロモーション来日した時、インタビューで「オリンピックの音楽を書く予定だ」とおっしゃっていましたけど、あれはどうなったんですか?
J:そうなんだ。半分書いたんだよ。 その後、色々とあって、実現しなかったんだ。 まとめていた人達が、金もなくなり、時間もなくなったんだ。 私はとても一生懸命やって……、45分の音楽を書いたんだ。 オーケストラのための音楽もね。 そして、「これは実現するのだろうか?」と訊いたら、「そう期待してる、どんどん実現に近づいてる」という返事だったんだが、とてもじゃないけれど無理だ、完成させるために必要なサポートをして貰えない、ということが判ってね。 でも、音楽は出来ているから、いつか何かで使うよ。 とても残念だったね。 とても良いプロジェクトだったんだけれど…。次のオリンピックかもしれないね。

(笑)

私が望むのはプレイすることだけ。 政治的な問題がなくなれば今のメンバーと永遠に一緒に出来る。 でも……

──二ュー・アルバムに戻りますが…
J:難しい質問に戻るんだね。 (笑)

──「THE BATTLE RAGES ON」アルバムで一番気になっているのは“Ramshackle Man” で、ブッカーT&MG'Sの“Green Onions”に似ていますが…。
J:そのとおり。 但し、“Green Onions”が似ているんだけどね。 (笑)

──何か関係があるんですか?
J:リッチーが…最後に私達がやったのはバッキング・トラックで、次の日には終わることになっていたんだが、プロデューサーが「もう1曲やれるかい、何かやれるものはないかい?」と言ったんだ。 すると、リッチーが「ジョン、キミが昨日弾いていたものは何だい?一人でオルガンを弾いていただろ?」と訊いたんだ。 私が「あれはとても有名な曲だよ。 “Green Onions”というんだ」と答えると、リッチーは「知らないな、一度も聴いたことがない」と言うんだよ。 「冗談はよせよ」と言ってやったよ。 (笑)「もう一度弾いてくれ」と言うから、オリジナルのオルガン・バートを弾いたんだ。 彼は「これは素晴らしい、これをやろう」と言うんだ。 で、「キミがやりたいんならやれるよ」と言うと、彼は「ちょっと待っててくれ」と言って、バルコニーに行って戻って果て、「こういう風にやったらどうだい?」と、こうやったんだ。 (笑)私は「キミがやりたいことなら何でも構わないよ」と言った。 それで彼が途中の部分を作ったんだ。非常に素早くやってのけたんだよ。 構成を決めるのに2時間半、そして2テイクで終わったと思う。 プロデューサーが、「ありがとう、良いセッションだった、今ので終わりだ」と言い、私達は荷物をまとめて、スタジオを離れたんだ。 (笑)
その後、イアン・ギランがそれを聴いて、彼はとても喜んで笑っていた。 彼は、「書いていた歌詞の住処を見つけたよ」と言ってた。 “Ramshackle Man” というタイトルを何年も温めていたらしいんだ。 その住処を見つけた、と言っていたよ。 ramshackleという英語は、バラバラになる、という意味の言葉なんだ。 だから“Ramshackle Man” というのは、どこにでも出現するんだよ。まるでイアンさ。 (笑)しかし、これはキミが指摘したとおり“Green Onions”に似ているよ。 ブッカーTは何と言うだろうね。 「あいつらは俺から盗作した」と言うかもしれない。いや、そうじゃないよ。 半分はそうで、半分は逆さ。 (笑)

──あなたが一番気に入っている曲はどれですか?
J:そうだなァ……3〜4曲あるよ。 タイトル・トラックは大好きだ。 私達が時々やる、こういう長くて複雑な曲は、非常に上手くまとまるんだ。 歌詞が特に好きだ。とても悲しい歌詞なんだよ。 ロジャーの世界観で、これからどうしようというんだ、どんどん悪くなるばかりだ、とロジャーは書いているんだ。 とても良く合っていると私は思う。 そして、イアンの歌い方も大好きだ。 だから、これが私のお気に入りの一つだよ、
“Talk About Love”も好きだし、‥‥‥“One Man's Meat”も楽しい。良い感じのブルーズだよ。 “Anya”もとても好きだよ。 しかし、アルバムを作ってしばらくの間は特に好きな曲を選ぶのは難しいね。 私にとっては、全部良い曲ばかりだからね。 捨てるものは何もない。仕上がりにはとても満足しているよ。 今は“The Battle Rages On”が一番好きだと思うけれど、それも変わるだろうね。どんどんプレイしている内にね‥・。

──こういう風に話をしていると、あなたはバンドでプレイしていられれば満足で、DPで起こっている政治的な問題には関わらないでいたい、と思っているようですね?
J:そう、全くそのとおりだよ。 私が望んでいるのはプレイすることだけさ。 政治的なことがなくなれば、今のメンバーとは永達に一緒にプレイ出来る。 エゴがなくなり、バリアーも壁も橋もなくなって、何年も前の、“Child ln Time” を一つの部屋で一緒に書いていた頃に戻れれば…。 しかし、それは出来ないんだから、私に出来る最善のことはこのバンドでオーディエンスの前でプレイすることだ。 それが私にとって最高の時だよ。 これまでの私の人生で、途中途切れたりはしたけれど、一番幸せな時なんだ。 話をするのは大好きだよ。誤解はしないでくれよ。 しかし、結局は、私は話をするよりも演奏をする方が上手いからね。

──勿論ですね。……もう―度伺います。 25年間幸せでしたか?
J:殆どの時はね。

──この25周年というのはDPにとっては一つの通過点であり、これからも続くのでしょうか?
J:そうだと思うよ。 ……続けない理由はないからね。 またアルバムを作りたければ、私達には作ることが出来る。誰も止める人はいないよ。 満足してくれているレコード会社があるし…。 いや、彼らはどうしたらいいか判らないようなんだ。 「次は何をやるのですか?」と訊かれて、「さあ、判らない」と答えたら、「判りました。準備が出来たら教えてください」と言っていたよ。 (笑)
リッチーは何か自分でやりたいようだね。 昨日話したかどうか判らないが、そう思っている筈だよ。 彼がそれをやっている間、私は8年ずっと温めていた自分のアルバムのプロデュースをしたいんだ。 もう出さなければいけない。 だから、ツアーが終わったら、多分来年はそれをやることになるだろう。
しかし、それが終わりだと思わない。 25年とは、24年とも26年とも殆ど変わらない。 リッチーが言っていたように、25周年は他の人達が祝うもので、自分達はやるべきことをやるだけだ。 彼は私にそう言っていたよ。「25周年を祝う気はないんだ」と言っていた。 「他の人達が祝いたいのなら構わないが、自分にとっては1つの年にすぎない」と言っていた。 それが彼の考え方だよ。 しかし、25年間もやって来たということを誇りには思えるよ。長い期間だよ。とても長い。

──最後に、あなたからファンヘの特別なメッセージをお願いします。あなたがオルガンをずっと弾き続けているのと同じように、DPをずっと聴き続けているファン、ツアーや新しいレコードの発売をずっと待っているファンヘの、メッセージをお願いします。
J:言えるのは一言だけだよ。ありがとう。 バンドが一緒にプレイするだけでなく、私自身が何とか25年も続けられたのは、アルバムを買い、コンサートに来続けてくれた人達のお陰だよ。 新しい世代のファンも同じだ。第三世代の人達もいる。 私はいわば、ロックン・ロールを発見した世代の出身だよ。 とても若い時にロックン・ロールがやって来たんだ。 そして、今でも一緒にいる。 今までずっと一緒にいてくれた人達が、私達が続けている限りずっと一緒にいてくれると嬉しい。 とにかく、ありがとう。 心の中にあることを声で使って言うことは不可能だ。 ここにあるものを私は演奏するよ。そうしたいんだ……。 ■■